設立の経緯

 1.設立前の実情

 道前・道後平野は、瀬戸内海に面し降雨の少ない地域にあるため、河川の流量も乏しく、昔からしばしば干ばつ被害にさらされてきた。
 このため、先人達は、ため池を築くなど用水確保に涙ぐましい努力を重ねており、特に、昭和20年代には、戦後の食糧難もあって恒久的な用水対策が強く望まれていた。

 2.面河ダムの発想

 昭和26年7月県議会一般質問での沖喜代市議員(伊予郡選出)の発言は、予想以上の反響を呼んだ。
 水利関係者にとって、今なお脳裏に刻まれる建議で、『面河村の景勝地、関門を封じて、石鎚山麓に人造湖をつくり、落差を利用し面河川の水を重信川に落せば、水不足の解消や電源開発にも繋がる。』というもので、これが道前道後平野農業水利事業を起こす引き金となった。

 3.土地改良区の設立
 昭和32年に着手された当該事業は「西の愛知用水」とも言われる壮大な事業であったため、県が終始けん引役となり、これに市町村長、農家代表が唱和して取り組んだ言わば行政誘導型の事業であった。もちろん、底流には度重なる干ばつ被害から、なんとか逃れようとする農家の切なる願いがあったことは言うまでもない。
 世紀の大規模土地改良事業として着手することとなった当該事業完成後施設の維持管理を行うため、関係市町村長や既存土地改良区代表等の協力を得て、132名が申請となり、道後平野土地改良区は、昭和33年12月27日に設立した。

 

  

※写真は東温市河之内 道前道後第三発電所側の国道11号線沿から